己の立場を知ってチームに貢献した土場勝征選手

1987年プロ野球の世界で飯を食い始めて4年目。1991年の年初に、土橋勝征はレギュラーポジションを獲得するために今年はどうするかと聞かれた。

 

「長嶋一茂さんとのライバル争いとか言われていますけど、あのパンチ力、スター性では勝てっこないですから。バンド、エンドランとか派手じゃないがソツなくベンチの思惑通りに動ける――そういうアピールをして行かないとダメでしょう」と、自分の生きる道を悟っているかのように語っている。

 

 この時、土橋勝征は長嶋一茂とサードのポジションを争っていた。ショートは池山隆寛、セカンドは1989年に新人王に輝いた笘篠賢治、ファーストは広沢克実と決まっている。空いているポジションはサードしかなかった。

 

高校時代の土橋勝征は通算打率3割5分。32本塁打をマークした。夏の千葉県予選では3試合で4本塁打も打った。千葉県のスラッガーと呼ばれた。だから、土橋勝征は長嶋一茂以上にパンチ力、スター性もあった。しかし、土橋勝征はプロの世界ではベンチの思惑通りにバント、エンドランをし、チームのために自分を殺す。それが生き残る道だと決断した。

 

高校を卒業して4年目。土橋勝征を冠する言葉『いぶし銀』。この言葉の幹に枝をつけ、花を咲かすロードマップがこの時からスタートしたのではないか。 これ以後、土橋はベンチが望むことなら何でもチャレンジするようになる。1994年には古田敦也が骨折でリタイアしたときに、捕手未経験なのに土橋勝征は野村監督の指令で捕手の練習も始めるのだった。