
振逃げ」規則はいつ、どうして始まったのか?
●「振逃げ」規則はいつ始まったのか?
野球規則の抜け道を見つけて奇策を計り、マナー違反のやり得をする選手がいる。
やり得プレイ防ぐ対策として野球規則を変更する。それはやり得プレイを許さないというメッセージだ。
野球規則変更の変遷を追っていくと選手がやり得をしたことが原因だとわかる規則がある。「振逃げ」だ。
野球規則の歴史を調べていたらニューヨークの書籍販売人アレクサンダー・カートライトが1845年(江戸時代・弘化2年)9月23日に最初の野球規則を考案したと公益財団法人野球殿堂博物館の「ルールに見る野球の歩み」に書いてあった。
この規則は「ニッカーボッカー・ベース・ボール・クラブ・ルール」と名付けられている。
この第11条に「投球を三回空振りして最後の投球が捕らえられたらアウトとなる。捕らえられなければフェアとみなされ、打者は走らなければならない」とある。
これが「振逃げ」規則成立の原初かもしれない。
●規則の抜け道でやり得する
野球の創生期においては、投手は下手投げで、打者が指定した「高め」「真ん中」「低め」に球を投げる。下手投げで空振り三振した球を捕手が捕球できないなどはあり得ないちょんぼプレイだから空振り三振してもフェアにして打者を走者にしたのだろう。
ここでちょっと頭の良い捕手は抜け道の奇策を思いつく。そのプレイを追ってみよう。
一塁に走者がいる。打者は三回空振りした。その投球を捕手はわざと捕球しなかった。それで打者は走者になってしまい、一塁に向かって走り始める。
守備側は、走者をアウトにするには同じく「ニッカーボッカー・ベース・ボール・クラブ・ルール」の第13条「走者は、塁に着く前に塁上の野手が捕球するか、ボールでタッチされればアウトになる」から 捕手は二塁手に送球し一塁走者をアウトにし、続けて、二塁手は一塁手に送球して打者走者をアウトにする。見事な併殺成立。
まさしく捕手は規則の抜け道を見つけてやり得プレイをした。
このようにアンフェアープレイが続けばその対策として規則変更をせざるを得ない。どう変更したのか?
●やり得を防ぐ規則変更する
最初の野球規則から44年後の1883年(明治16年)6月に出版された東京大学予備門のお雇い外国人教師F・W・ストレンジの『OUTDOOR GAMES』に記載されている野球規則をひも解いてみた。
「3ストライク直後に打者が一塁に走らなかった場合」に走者はアウトになると規則が変更になっていた。捕手がわざと捕球しても打者は一塁に走らなければアウトになるのだ。
一塁に走者がいる。打者は三回空振りした。その投球を捕手はわざと取らなかった。いままでは、打者は走者になり、一塁に向かって走らなければならなかったが、変更後は3ストライク直後に打者は一塁に走らなければアウトになる。
それで、一塁走者は二塁に走らなくてもよくなる。捕手のやり得併殺はできなくなった。
一塁に走るは義務から権利になったのだ。
ならば、最初からやり得併殺をさせないために併殺を狙える無死・一死走者一塁ではスリーストライクで打者を即「三振アウト」にする。それ以外の場面では打者は走者になるとすればよいわけだ。
これが今日の振逃げ規則になったのではないだろうか。
「公認野球規則5.05(a)次の場合、打者は走者となる」 「5.05(a)の(2)……(A)走者が一塁にいないとき、(B)走者が一塁にいても2アウトのとき、捕手が第3ストライクと宣告された投球を捕らえなかった場合に打者は走者になる」 これで無死、一死走者一塁のときに「振逃げ」ができない規則が出来上がったのでは。