追悼、私にとっての長嶋茂雄とは。
1959年だったと思う。小学6年のとき父が後楽園球場に連れて行ってくれた。その日は変則ダブルヘッダーで第一試合は国鉄対中日、第二試合は巨人対阪神だったと思う。
第一試合終了間際にバックネット横の通路に行くと長嶋選手が「坊主、もう第一試合は終わるか」と、私に聞いてきた。私は何と応えたか記憶にない。私にとって長嶋茂雄はこんな坊主にも気軽に声を掛ける人という記憶だけが残っている。
もう一つの私にとっての長嶋茂雄は1964年オリンピックの年にオリンピックコンパニオンの西村亜希子さんと婚約の報をニュースで知ったときだ。
「ああ、これで野球選手は初めて社会的に認知された」と思った。
プロ野球選手は人気あったが、まだ、野球を商売にする、野球で飯を稼ぐ人間は社会的に一段下と見られていた時代だった。
大下弘、金田正一、川上哲治にしても奥さんは上流階級の女性でなかった。
西村亜希子さんはアジアで初めてのオリンピック、戦争犯罪国家日本を雪ぐ平和の祭典オリンピックのコンパニオンに選ばれた女性だから、語学堪能でマナーや素養に問題のなく才色兼備の良家の子女だった。
恐らくご両親は自分の娘を野球でお金を稼ぎ、飯を食う男に、如何に人気者でも心配し、躊躇する気持ちがあったのではないかと私は想像していた。
野球天才長嶋茂雄曰く「恋とはこいうものなのか」と二人は結婚した。その瞬間から野球選手は西村亜希子を通して社会的に認知されたのだ。そう確信した。
私にとってのもう一つの長嶋茂雄である。拝。